2012年12月10日から始まった中央アフリカ共和国(CAR)の反政府軍「セレカ(現地サンゴ語で同盟を意味する)」による約1か月の動乱は年が変わった1月11日に、ガボンの首都リーベルヴィルで3日間行われた交渉の末に、一先ず停戦合意がまとまって収まろうとしている。
日本ではあまり報じられなかった(あまり関係がないから仕方ない)が、英米仏メディアではセレカの怒涛の進軍と為す術もない政府、援軍を派遣をした近隣諸国をはじめとする国際社会の調停努力などが結構大きく扱われていたので、簡単にまとめておく。
CARはアフリカらしく(?)内戦が続いて現在もその残り火が燻っている不安定な国の一つだ。今回の1か月の混乱の背景も、2004年から2007年まで続いたBush Warの処理の不始末がある。
今回、CAR北部の都市ヌデレから首都バンギの北約75kmに位置するダマラ近くまで進軍し、12、3の町を支配下に収めたセレカの目的は、2007年4月13日に政府と当時の反政府勢力との間に締結された和平合意を履行しなかったボジゼ大統領の退陣とされた。
同合意では反政府勢力UFDR(民主統一戦線連合)への恩赦、政治参加の承認、武装解除した兵士への一時金(恩給?)支給などが約束されていたが、これが守られていないというのが反政府陣営の動機となった。
騒ぎが国際社会の耳目を集めるまでになったのは12月10日以降だが、その前の9月頃から、反政府勢力が政府軍の兵士を殺害するなど兆候があった。2012年8月に政府と反政府武装勢力の一つCPJPが和平文書に調印したが、これに反発した同勢力の分派による仕業だと見られていた。
このような経緯があったため、12月10日から11日にかけて、ヌデレと近隣の2つの町が奇襲を受けて陥落したという一報が入ったときも、その後の展開を予期するのは容易ではなかった。おおまかなタイムラインは次の通りとなる。
15日、ヌデレからバンギ方向に120kmに位置するバミングイ陥落
18日、ダイヤモンド鉱山の町でバンギの北東600kmにあるブリアを占拠、ボジゼ大統領の要請を受けた隣国チャドが支援部隊の第一陣を派遣に
19日、バンギの北400km?にあるカボ陥落
23日、この頃から反乱軍がセレカと呼ばれるようになる。第3の都市バンガリを制圧
25日、カガ・バンドロ陥落
26日、セレカの侵攻に対し介入の構えを見せないフランスに怒った群衆が大使館を包囲する。国連がスタッフと家族を退避させたほか、米国も自国民に退避勧告を出す。オランド大統領は大使館警備の強化と自国民保護を命令。
27日、ボジゼ大統領が米仏に支援を要請するも、オランド大統領は拒否、駐留仏軍は自国の利益と自国民およびヨーロッパ市民の保護が任務だとする。
28日、政府軍がバンガリ奪還を試みるもあえなく撃退される。米大使館が業務停止、外交官が国外退避
29日、交通の要衝でバンギから約130kmにあるシブトが陥落。チャド軍とCAR軍はダマラまで後退
その後年末年始にかけて急ピッチで「中部アフリカ諸国共同体(ECCAS)」の枠組みで同国の平和維持活動(MICOPAX)にコンゴ共和国、ガボン、カメルーンが計360人の部隊を派兵したほか、CAR政府と反政府軍の間で調停に入り、1月9日~11日の3日間、最初の触れた和平交渉へと展開していった。
交渉ではボジゼ大統領が任期一杯務めること、反政府側から首相を選出しての挙国一致内閣を作ること、またこの内閣は大統領府からの干渉で解散させられないこと、など合意が出来上がり、双方は合意文書に調印して停戦が正式に成立した。
もっとも、停戦が成立したのには、中央アフリカ政府軍だけならまだしも、強力な近隣諸国の援軍を打破して首都まで進軍する力がセレカ側になかったであろうことも理由として挙げられるんだろう。
1か月で一気に首都まで迫ったとはいえ、面制圧でなく直線的な進軍であり、兵力・装備ともに、脆弱なCAR軍だからこそ排除して進めたのだと思われる。
また、仏軍は結局600人近くまで駐留部隊を増やしたとされているが、介入の意志をまったく見せなかったが、それほどのインタレストが同国にはなかったのか、パワーがなかったのか、国内事情が許さなかったのか、いずれにしても「庭」での対応としては次に取り上げるマリで見せた積極性とは対照的だったのが印象深かった。