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4/29/2015

バンドン、キャピトルヒル、そして談話へ

 訪米中の安倍首相がまもなく米議会上下院の合同会議で演説をする。先のバンドン演説から、来るべき戦後70周年の安倍ステートメントへと流れる大事なスピーチである。その内容、文言は日米両国のメディアから厳しく論評されるだろう。

 付き纏う歴史認識への懸念を払しょくできるかを日米のメディアは注視しているが、それは適切な問いではない。首相がもっとも問われるべきは、70年前の終戦前の過去から現在、そして現在からこれから10年20年先の未来へとつながる「歴史」をどう象るかだろう。

 そこに必要なのは過去だけを見た「お詫び」ではない、「痛切な反省」ではない。それを踏まえて日本が戦後の70年どう歩み、そしてこの先どのように振る舞うかである。それは単なる「未来志向」でもない。結局のところ、過去を見ずして未来を描くことはできないし、過去ばかり見ていてもありたい未来のことには考えが至らない。

 この演説は初めて上下両院の合同会議で日本の首相が演説をするということで歴史的であるし、戦後70年の一つの節目で、不安定な世界で日米同盟が防衛ガイドライン改訂を経て次なるステップへと進む、重要なタイミングで行われる。

 先のインドネシア・バンドンでのアジアアフリカ会議における演説では、過去の村山政権、小泉政権が使った文言に触れなかったことがフォーカスされたが、この米議会演説でも同様に直接表現を踏襲する必要はおそらくない。

 最も旧帝国時代について踏み込んだ発言・表現をするとしたら、それはやはり談話をおいてほかにはないだろう。アジアアフリカ会議は植民地時代からの脱却という(当時の)未来に向いた性質を成り立ちにおいて帯びていたし、米国は先の大戦で戦った敵であったが、今直面する「歴史問題」の当事者でもないし道徳的指導的立場にある存在でもない。