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1/18/2013

ムフタール・ベルモフタール


 アルジェリア・イナメナスでBPのサイトを襲撃した組織の指導者についてのメモです。

 ムフタール・ベルモフタール(Mokhtar Belmokhtar)、またの名はKhaled Abu al-Abbasは、197261日生まれ、アルジェリア中部ガルダイア県出身のイスラム武装組織の指導者である。愛用しているタバコはマルボロらしい。
 1991年頃にアフガニスタンで聖戦に参加、翌92年に帰国し、後にAQIM、「イスラム・マグレブのアル・カイーダ」として知られるサラフィストの聖戦団Salafist Group for Preaching and Combat(GSPC)に加入する。
 20126月、マリ北部アザワド地域でMNLAとの紛争で死亡が伝えられるも、77日に出された声明文で健在を確認される。
 12月初旬にビデオメッセージでAQIMから分派して自らイスラム武装組織「血の署名団」(別名「サヘル旅団」)を結成を表明した。
(過去に関与したとされる事案)
20032月~3月に、アルジェリア南部で複数の観光客グループを誘拐
20071224日、モーリタニアで仏人4人の誘拐および殺害を首謀
200812月、ニジェールで国連関係のカナダ人外交官2を誘拐
20091月、スイス人2人とドイツ人、英国人1人を誘拐
20111月、ニジェールのニアメイで仏人2人を誘拐

 過去の経歴を見る限り、また解放された現地人の証言(サイトの構造に熟知していた云々)からも、仏軍によるマリへの軍事介入が始まる前から計画を立てていたものと推測されます。
 AQIMを離脱して新しい組織を立ち上げたばかりであることから、身代金で資金を得る、あるいは組織の名声を上げてスポンサーから寄付金を集めやすくするのが目的であったかなというのが私見です。

1/13/2013

マリ介入までのグダグダな経緯

 昨年12月20日に国連安全保障理事会決議で北アフリカの国マリに対する軍事介入がオーソライズされ、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)を中心に、NATO諸国も関与しての軍事介入が今年起こることは予期されていたことでした。

 同国の事情は(やはり関係がないので)日本から見ればあまり馴染みがないものと思いますが、2011年から続く、中東・北アフリカの混乱の上にあるものと理解していただければ良いでしょう。

 事の発端はリビアの「革命」です。

 カダフィ政権が倒れ、国内の統制が喪失し、畢竟、国境管理もルーズなものとなったため、内戦時に使われた武器兵器の類が近隣諸国に流出してイスラム過激派の武力が強化され、加えてこの戦争に参加し経験を積んだ戦士がマリに戻ってきました。

 最初に北部マリで勢力を拡大したのは少数民族トゥアレグで、彼らの勢力MNLA(アザワド解放民族運動)はマリ軍を追い払って2012年4月6日に独立を宣言、アザワドを建国しようとしました。

 一方、首都バムコでは3月21日に、リソース不足で政府に不満を募らせていた軍部によるクーデターが発生し、最終的にトゥーレ大統領の辞任とトラオレ国会議長の暫定大統領就任という、体制変革を余儀なくされ、とてもアザワド奪回に乗り出せる状況ではありませんでした。

 これだけでも(少数民族勢力独立+軍事クーデター)相当な混乱ですが、マリのカオスはまだ終わりません。

 トゥアレグ勢力MNLAは当初イスラム武装勢力「アンサール・ディーン」や「西アフリカの統一・聖戦運動(MUJWA)」らと共同戦線を張り、5月26日には一時アザワド・イスラム共和国の成立で合意したとされました。

 しかし「民族自決」を志向したMNLAとシャリーアに基づいた国作りを夢見た「アンサール・ディーン」らの蜜月は短く、6月には両者の盟約は破棄され交戦状態に突入しました。

 この衝突はイスラム勢力が優勢で、MNLAは勢力を失い「独立国」アザワドは瓦解し、以来マリの北半分はイスラム勢力の手に落ちることになりました。


(つづく)

1/12/2013

セレカの1か月戦争

2012年12月10日から始まった中央アフリカ共和国(CAR)の反政府軍「セレカ(現地サンゴ語で同盟を意味する)」による約1か月の動乱は年が変わった1月11日に、ガボンの首都リーベルヴィルで3日間行われた交渉の末に、一先ず停戦合意がまとまって収まろうとしている。

日本ではあまり報じられなかった(あまり関係がないから仕方ない)が、英米仏メディアではセレカの怒涛の進軍と為す術もない政府、援軍を派遣をした近隣諸国をはじめとする国際社会の調停努力などが結構大きく扱われていたので、簡単にまとめておく。

CARはアフリカらしく(?)内戦が続いて現在もその残り火が燻っている不安定な国の一つだ。今回の1か月の混乱の背景も、2004年から2007年まで続いたBush Warの処理の不始末がある。

今回、CAR北部の都市ヌデレから首都バンギの北約75kmに位置するダマラ近くまで進軍し、12、3の町を支配下に収めたセレカの目的は、2007年4月13日に政府と当時の反政府勢力との間に締結された和平合意を履行しなかったボジゼ大統領の退陣とされた。

同合意では反政府勢力UFDR(民主統一戦線連合)への恩赦、政治参加の承認、武装解除した兵士への一時金(恩給?)支給などが約束されていたが、これが守られていないというのが反政府陣営の動機となった。

騒ぎが国際社会の耳目を集めるまでになったのは12月10日以降だが、その前の9月頃から、反政府勢力が政府軍の兵士を殺害するなど兆候があった。2012年8月に政府と反政府武装勢力の一つCPJPが和平文書に調印したが、これに反発した同勢力の分派による仕業だと見られていた。

このような経緯があったため、12月10日から11日にかけて、ヌデレと近隣の2つの町が奇襲を受けて陥落したという一報が入ったときも、その後の展開を予期するのは容易ではなかった。おおまかなタイムラインは次の通りとなる。

15日、ヌデレからバンギ方向に120kmに位置するバミングイ陥落

18日、ダイヤモンド鉱山の町でバンギの北東600kmにあるブリアを占拠、ボジゼ大統領の要請を受けた隣国チャドが支援部隊の第一陣を派遣に

19日、バンギの北400km?にあるカボ陥落

23日、この頃から反乱軍がセレカと呼ばれるようになる。第3の都市バンガリを制圧

25日、カガ・バンドロ陥落

26日、セレカの侵攻に対し介入の構えを見せないフランスに怒った群衆が大使館を包囲する。国連がスタッフと家族を退避させたほか、米国も自国民に退避勧告を出す。オランド大統領は大使館警備の強化と自国民保護を命令。

27日、ボジゼ大統領が米仏に支援を要請するも、オランド大統領は拒否、駐留仏軍は自国の利益と自国民およびヨーロッパ市民の保護が任務だとする。

28日、政府軍がバンガリ奪還を試みるもあえなく撃退される。米大使館が業務停止、外交官が国外退避

29日、交通の要衝でバンギから約130kmにあるシブトが陥落。チャド軍とCAR軍はダマラまで後退

その後年末年始にかけて急ピッチで「中部アフリカ諸国共同体(ECCAS)」の枠組みで同国の平和維持活動(MICOPAX)にコンゴ共和国、ガボン、カメルーンが計360人の部隊を派兵したほか、CAR政府と反政府軍の間で調停に入り、1月9日~11日の3日間、最初の触れた和平交渉へと展開していった。

交渉ではボジゼ大統領が任期一杯務めること、反政府側から首相を選出しての挙国一致内閣を作ること、またこの内閣は大統領府からの干渉で解散させられないこと、など合意が出来上がり、双方は合意文書に調印して停戦が正式に成立した。

もっとも、停戦が成立したのには、中央アフリカ政府軍だけならまだしも、強力な近隣諸国の援軍を打破して首都まで進軍する力がセレカ側になかったであろうことも理由として挙げられるんだろう。

1か月で一気に首都まで迫ったとはいえ、面制圧でなく直線的な進軍であり、兵力・装備ともに、脆弱なCAR軍だからこそ排除して進めたのだと思われる。

また、仏軍は結局600人近くまで駐留部隊を増やしたとされているが、介入の意志をまったく見せなかったが、それほどのインタレストが同国にはなかったのか、パワーがなかったのか、国内事情が許さなかったのか、いずれにしても「庭」での対応としては次に取り上げるマリで見せた積極性とは対照的だったのが印象深かった。

1/04/2013

対ミャンマー外交について

麻生副総理が年明け早々ミャンマーを訪れ、3日にテイン・セイン大統領と会談、本日4日には共同開発するティラワ経済特区を視察しました。

テイン・セイン(元軍人・大将)が首相から大統領になったのは2011年3月、以来ミャンマーは民主化路線に舵を切り、未だ軍の影響は強く残っているものの、外の世界の予想をいい意味で裏切ってきました。

長年に渡って軟禁されていたアウンサンスーチー女史は昨年4月に連邦議会の議員になりましたし、テイン・セイン政権は少数民族の武装勢力との和平では、後述するカチン州のKIAを除いてほとんどの主要勢力と停戦に合意するという目覚しい「成果」を挙げてきました。

この急激な変化、そして改革姿勢を評価した欧州や米国が「飴」として、また一層の民主化や少数民族問題の解決を促すための「梃子」として続々と経済制裁の緩和に踏み切ったのが2012年でした。

我が国もこの潮流に乗って、ODA再開、今回麻生副総理が表明した5000億円の延滞債権や500億円の円借款再開を通じてミャンマーの民主化改革と経済発展を支援するのはもちろん、アジアの「ラスト・リゾート」とでも言うべきミャンマーにおいて政治的経済的に強いプレゼンスを確保したいところです。

主要閣僚、それもNo.2が最初の訪問先に同国を選んだのはとても意義深いことですし、新政権発足してすぐというタイミングも絶妙でしょう。日本が率先して延滞債権の解消に取り組むことで、近々開かれるパリクラブ(主要債権国会議)にてこの問題をクリアし、ミャンマーに投資する上での制約を一つ取り除くことに繋がることが期待されます。

しかし一方で、同国へ関与していく上で、少数民族やその人権に関する問題は道半ばの民主化同様に深く考慮されなければならないでしょう。ミャンマー国内では相当なスピードで我々にとって歓迎すべき変化が起きていますが、まだまだ脆弱で可逆的なものであると見ています。

(先月から激化している)北部カチン州の戦闘で政府軍が反政府武装勢力KIA(カチン独立軍)に対して空爆したと報じられ、昨日には軍が軍用機およびヘリを投入したことを認めました。

米国務省のヌランド報道官らが衝突のエスカレーションを憂慮する旨声明を出していますが、ここではもう1点、テイン・セインの政府がどの程度軍をコントロールできているのかも懸念されるところです。しっかり手綱を握って攻撃を自制させなければ、政権の和平に対する本気度合いが疑われるところでもあります。

最後の反政府武装勢力KIAとの停戦が破られて交戦状態に入ったのが2011年の6月ですが、戦闘の長期化と、昨年幾度となく噴火した西部ラカイン州のロヒンギャ問題は、これまでテイン・セインが積み上げてきた彼と彼が統べる国の評価に傷をつけるものです。

麻生副総理はこれら少数民族問題を担当し、テイン・セインの側近でもあるアウン・ミン大統領府相とも会談しました。

年末年始に紛争が激化してから最初に同国を訪れた主要国の政治家として、やんわりと言うべきことは言ってくれたのではないかなと思います。

日本としては地政戦略的にも経済的にも、台頭する中国を意識して是が非でもミャンマーをこちら(自由民主主義)側にたぐり寄せたいところです。しかしそれはかの国が抱える幾つかの問題に目を瞑ることを正統化しないでしょう。


1/01/2013

新年のご挨拶

(更新が途絶えている本ブログですが)ご愛顧いただいている読者の皆々様にとって2013年が新たな可能性に満ち満ちている一年であることを祈念しております。

本年こそは怠けず、定期的に(最低でも週に1度は…)更新して国際情勢分析を披露できればと考えています。

アナリストとしてモニターしているアフリカやアジアの国々の最新情勢についてもフォローしたいですね。

また、既に作り始めているのですが、1月から新しいブログを始めます。

現在のTill the end of historyでは引き続き国際政治・安全保障を取り扱い、

新ブログでは国内の政治・経済・社会を中心に幅広く、もう少しライトで親しみやすい内容にする予定です。

お披露目は三が日後になりますが、こちらもご一読いただければ幸甚です。

それでは、本年もよろしくお願い申しあげます。