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4/16/2012

フィクション、あるいは「神話」が失わせるもの

奥山氏の「カーナビは使うな!:テクノロジーの落とし穴」を読んで。


安全保障にとって大事なのはイマジネーションだ。Thinking about the unthinkableというのは1962年のハーマン・カーンの著作の題だ。彼がそこで考えたのは熱核戦争についてだった。このようなとても起きてほしくない、考えたくない我々の生存を脅かし得る不都合なシナリオに目を向ける能力が根本的に不足しているのが今の日本政府だ。'Hope for the best and prepare for the worst'という英語のことわざ(proverb)があるが、彼らはand以降が欠落している。

このことは現在の民主党政権三代でも、言うまでもなくその最たるものが東日本大震災で起きた原発事故とその対応であるが、はっきりと可視化されている。しかし幅広い文脈で捉えれば我々が直面しているこの問題はより広範にお偉方にあてはまることになるだろう。衆議院がサイバー攻撃を受けた後の昨年11月の時点で、そうすることを促されたにもかかわらず、議員の45%しかパスワードを変更しなかった。これがウイルスを仕込んだフラッシュメモリー媒体一つでイランの国家プロジェクトたる核開発プログラムにダメージを与えられるサイバー戦争時代に容認できないリスクを生起させることを55%は想像できていないのだ。

カエサルはガリア戦記に「人はほっするところのものを喜んで信じる“libenter homines id quod volunt credunt”」と記している。これは人間誰しもが持ち合わせているだろう性質だが、宗教のような強いフィクション、神話によって強化されることで「見たくないもの」に目を向ける能力、信じるものの外に思いを巡らす想像力が損なわれるのだ。福島の失敗の根本的原因は非現実的な「安全神話」に逃げ込み、最悪の事態を想定して備えなかった人的側面にあるだろう。技術的にロボット大国でありながら、原発事故に際して重要な役割を日本のテクノロジーが果たすことはなかった。(2011年)4月10日に投入されたハニーウェル社のTホーク、17・18日に建屋に入ったアイロボット社のパックボットはともにアメリカの軍用テクノロジーだった。(軍事を放擲している)日本のテクノロジーはそれが最も必要とされる時と場所において働きに限界があった。

では政・官・学その他諸々が不可欠なイマジネーションを持ち合わせていない、安全保障観とガバナンスの喪失の根源はなんだろうか? アダム・スミスは『国富論』で主権<国家>(the sovereign)の第一の義務は社会を他の社会(国家)の暴力と侵攻から守ることでありそれは軍事力の手段によってのみ遂行されるものと書いてる。この防衛という第一の義務に対してあまりにも無関心なのは無視されるべきではないだろう。そして今日まで防衛・安全保障に関して考えないことのイクスキューズとして用いられてきたのが憲法的制約、とりわけ集団的自衛権の行使に関わる部分が挙げられよう。

2012年4月14日号のThe Economistの記事では漸進的により現実主義的に向かいつつある日本の変化を取り上げつつ'Whether Japan would be prepared to do more fighting, if the worst came to the worst, is quite another matter.'と核心部分に疑問を呈している。また同記事では中国の軍事的台頭に恐れを抱きながら日本が公にこれについて議論していないことが指摘されているが、手短に言えば相変わらずこの分野について深く考えることをしていないのだ、この期に及んで。織田邦夫元空将は日本の外交安全保障の基軸とされる日米同盟における喫緊の課題として、普天間問題と集団的自衛権の問題を上げている。しかし普天間問題も結局のところ日本の集団的自衛権に係るスタンスが鍵となろうし、加えて今南スーダンへの陸自派遣等でPKO法改正が議論になっているような国際平和活動や国際安全保障協力の分野においてもクリアされるべき課題なのだ。

自民党政権時代から「憲法」を盾に右往左往し続けてきたことで、ハイポリティクスの決断を避けてきたことで、これを行なう上で欠かせない戦略的思考やリアリズムが衰えることになった。憲法的制約に下駄を預けることで、政治家たちは安全保障についての思考や判断を回避し、その結果としてこれに関わる感覚や能力が養われてこなかったのだ。この問題は目新しいものではない。にも関わらず議論は沈滞し長らく先送りされ続けてきた。実際問題として集団的自衛権行使の解釈問題は政治的な、高度な政治的な決断によって解決されるものであるにもかかわらず。

原発の安全神話や憲法的制約といったフィクション、「神話」、共同幻想が我々の豊かな想像力を阻害する。「経典」の教えに従っていればいいとする宗教原理主義者は自堕落で狭隘な物の見方を身に付けるだろう。進化論否定など格好の例と言える。GPSのようなテクノロジーがある人間の感覚能力を退化させるように、これら人間が生み出したフィクションもまた我々のイマジネーションを制約し得るのだ。

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