ページ

このブログを検索

9/20/2015

シリアの現状、不介入政策の帰結

欧州の難民問題がここのところ話題になっています。泥沼の内戦にISの脅威に晒されているシリアや、シリアに比べればはるかにマシだけれども情勢不安定で過激派も入り込んでいるリビア、北朝鮮以上に自由のないアフリカのエリトリア、そのほかナイジェリアや、果てはアフガニスタンから、大勢の難民がドイツや北欧などを目指しています。

シリアでは、2011年の紛争勃発以来、20万人以上が死亡し、400万人を超える人が国外に逃れて難民となり、また国内避難民も相当数発生しています。昨日、ヨーロッパを訪問中の米国のケリー国務長官は、難民問題の深刻化を受けて、紛争を終わらせるための新たな外交努力を呼びかけました(BBC当該記事)。


反政府派の拷問、女性に対する暴行、市民への空爆、大量の殺戮、化学兵器の使用、ISの台頭。今日まで続き、なお好転の見込みが薄い惨状に、「早期に人道的介入をしていれば、あるいは阻止できたのでは」と考えさせられるところです。

(以下は過去にシリアに触れたものです)
「そう、シリアはリビアより難しく、ダルフールより酷くない。」(2011年11月30日)

「シリアに直ちに介入することが好ましくない8つの理由」(2013年8月29日)

「オバマのDo the stupid stuff」(2014年10月11日)

(↑のうち最後のエントリーについては、今月16日にロイド・オースティン司令官が上院軍事員会の公聴会で証言したところ、米軍が訓練したシリア反体制派のうち、対IS戦に従事しているのが4、5人だそうです。空爆についても、8月26日付けのNYTの報道によると、米中央軍が情勢分析の方古書で歪曲を行ったと指摘がなされており、米軍の対IS戦略が機能していないものと見られます。)

過去に、自分なりに情勢を分析した上で不介入を是としましたが、冒頭で挙げた死者数・難民数を見ると自問自答せずにはいられません。「これでよかったのか」と。これでいいわけがないのですが。各国の首脳や政策当局者が、当時介入しなかったのにはそれ相応の政治的、外交的、戦略的、あるいは法的な理由がありましたが、行動しなかった結果について重く受け止めなければならないでしょう。

今日のシリアはアサド政権、反体制派、IS、アルカイダ系のヌスラ戦線など諸勢力が入り乱れ、また外部の勢力もトルコ、ヨルダン、湾岸諸国、そしてイランが複雑に絡んでおり、一種のグレートゲームが展開されている状態です。また、アサド政権を後援するロシアと米国の利害の不一致もあり、「大国政治の悲劇」の犠牲でもあります。ある反アサド派で現在米国ワシントンD.Cに住んでいるシリア人によれば、オバマ大統領はこの問題で「イラン人に心配をかけることを望んでいない"President Obama does not wish to upset the Iranians"」というスタンスだったそうです。この男性は「オバマが外交を通じて平和の遺産を残したいことは理解できるけど、なぜ彼が独裁者との取引が平和をもたらsと信じているのか理解できない」と述べています。

シリア情勢を見ていると、冷酷な国際政治の現実と、理想の狭間で葛藤を覚えずにはいられません。

9/19/2015

集団的自衛権~通過点として

平和安全法制整備法案と国際平和支援法案が成立し、日本は限定的な集団的自衛権の行使が可能となりました。

5年前、私は戦争学を学ぶために大学院留学しました。その時はいつか日本が現実的な安全保障政策を持ち、多国間協調で国際平和により一層貢献するようになる日が来るだろうと思い、その日のために国際情勢を理解し安全保障に精通することが肝要だと考えていました。

4年前の秋、修士課程を終え論文を提出し終え、外務省から留学していたコースメイトとウクライナ、トルコ、ブルガリアの3か国を卒業旅行していたとき、イスタンブールからソフィアに向かう列車の客室内で、彼と日本のこれから、外交や安全保障について議論しました。その中には集団的自衛権も含まれていて、「首相の政治的決断で解釈を変更してやれるのだから、やるべきだ」という旨熱く語っていた覚えがあります。

正直なところ、かくも早く集団的自衛権の行使が可能になるとは予想していませんでした。英国で修行している時には10年以上かかるものと覚悟していました。数年前の自分であればもっと高揚していたのではないかと思いますが、今日という日を迎えてもこみ上げるものがないです。理由は色々考えられるのですが、最も大きいのはここが終着点ではないということでしょうか。

この数か月の議論の在り方は予想していたとおりで噛み合わず、少しでも政策論、安全保障の実りある議論が深まればよいという淡い望みは望みのままでした。戦後70年間にわたって軍事を忌避し放擲してきた日本の社会にあって、安全保障を正面から議論する知的基盤が存在せず、加えて安全保障への関心は経済や社会保障といった身近な問題と比較して圧倒的に低いことから、広範な理解を得るのが難しいのはやむを得ないものと認識しています。一方で、安全保障の世界にいる者として、様々なケースや欧米の研究などを紹介して少しでも参考にしてもらうという努力をしてこなかったのは怠慢だと反省しています。

今回の政府憲法解釈の変更、提出された法案は率直に申し上げると中途半端で、不完全な形のものだったと思います。しかし、集団的自衛権を行使可能とすることは国際社会において責任ある国家として行動する大前提で、また個別的・集団的を問わず自衛権は国際法上当然認められる国家の権利でありかつ国内法の制約に反しないものという考えから、成立を支持します。

メディアでは今回の政策変更を「大転換」「転換点」と表現する向きが多いです。確かに法案を巡る政治闘争が熱を帯び、政治的にはとても象徴的な法案であったでしょう。しかし、集団的自衛権を巡る課題と議論は新しいものではなく、湾岸戦争のトラウマ、PKO協力法成立と自衛隊の海外派遣、周辺事態法の制定、9.11同時多発テロとその後のインド洋・イラク派遣と、過去20余年の積み上げの延長線上にあるものでした。また、政治的なインパクトと裏腹に、例えば武力行使との一体化は従来通り避けるなど、法案による変化は騒ぎの大きさに比べると穏健なものでした。ただ、小さくても一歩は一歩であり、非常に重みのあるものでしょう。

集団的自衛権が限定的に解禁されたのは一つの通過点です。今回、安保法制が整備されたからといって、日本の安全保障や地域の安定が完璧になるものではありませんから、これからも恒久的な平和がより恒久平和に近づくよう、不断の努力が求められているのだと思います。2法案の成立はゴールではなく、集団的自衛権の行使という選択肢が増えた日本政府・国民双方にとって、これからがより重い選択を迫られより重い責任を負うことになります。海外での任務が増える可能性が以前より高くなった今、日本の安全保障政策や自衛隊はよりスタンダード化する必要性があり、そのための様々な法律と能力の整備が求められます。

集団的自衛権が行使可能となることで、政府が主張するように日本の安全保障にも資するでしょうし、同盟の双務化で日米関係が強化されるでしょうが、それだけに留まらない可能性が拡がると考えています。米軍以外との協力の余地が拡大することで、他の友好国との安全保障協力が発展していくことが期待されますし、日米同盟とANZUSやNATOのネットワークとを統合していく向きが出てきても不思議ではないと思います。このほか、同盟の双務化は沖縄ほかの駐留米軍のイシューにも長期的に影響を及ぼすのではないかと考えています。(詳しくは割愛します)

個人的には、将来スレブレニツァやダルフール、アレッポ、ホムスで起きたことを未然に防ぐ機会があるとき、日本が傍観せず行動できる国際コミュニティの一員であってほしいと強く願っています。22万人以上が死亡し、400万人以上が国外へ逃れて難民となったシリアを見れば、やや理想主義が強いことは否定できませんが。今の首相や政府の方針とは異にしますが、国際協調のもとで保護する責任(responsibility to protect)を果たし、人道的介入を行えるようにするのが積極的平和主義の一つの形であり、そのために集団的自衛権が不可欠だと愚考します。日本のケーパビリティーとキャパシティを踏まえた上で、可能な範囲で惨禍の拡大を食い止めることができれば、紛争の犠牲者を少なくすることができます。

いずれにしても安保法制は数多くある通過点の一つであり、ここがはじまりです。日本をしてforce for goodとする。この国の舵取りを過たすことなく、少しでも安全で少しでも良い世界にしていく。及ばずながら、私個人としてもその為にできることをしていく所存です。